「死に際」に思うこと

DNARという言葉があります。Do Not Attempt Resuscitationの略語で一般に病棟では急変しても蘇生を試みないことに同意してもらっていることを指します。

よくこの言葉は「DNARを取る」という言い方でいわば入院時の際の病院側の一種のエクスキューズ(急変しても仕方ない、なすすべがありません)というニュアンスを持つことが多いですが(もちろん蘇生しても本人が苦しいだけだからという意義が第一です)、私は別の意味でこのDNARをかなり積極的にお話するようにしています。

田舎の病院は高齢者住宅と見間違うくらいに高齢の方が多く入院してきます。私が入院として扱うのは肺炎や尿路感染や交通外傷などが主でこの方は3日くらいで退院、この方は2週間くらい、この方は亡くなるかもしれないなと思いながら入院作業を進めていきます。おおよそどの方に対してもDNARのお話はすることにしています。

「延命治療はどうしますか」と問いかけた時の反応は様々です。軽症の方の家族には「そんなに重症なの?」という方もいますし「今ここで私が決めなきゃだめなの?」という判断に困る方もいます。もちろん「延命はしなくていいです」とあっさりおっしゃる方も一定数います。軽症の方はむしろ説明の時間がかかって、家族に精神的な負担を強いるだけに終わることが多いですが、よっぽど時間がない時を除いてはしておいた方がいいと思っています。

私が話をしていて気になるのは「今ここで私が決めなきゃだめなの?」という方が多いことです。初療するとき私たち医療者は飲んでいる薬を必ずチェックするのですが飲んでない高齢者はまずいないということです。10種類以上飲んでいている人も多いです(8種類以上飲んでいる場合の薬の副作用出現率は100%と言われています)。そのような方(と家族)が最後を迎える時のことを具体的に想像していないことが不自然なはずなのですが、基本的に最後のことを考えることが感情的に嫌だという印象を受けます。個人的には最後の時を考えていた方がその人と周辺の人たちは人生の充実度が増すと思っていますし、嫌な思いをさせるだけの迷惑行為ではないと今の所は思っています。

近藤誠氏という「がんは放置が一番」と世に言い放ち、医療者からはバッシングの嵐を受けているトンデモ医師の代名詞のような人がいますが、私は一定の支持はします。(もし患者さんからがんは放置がいいですかと聞かれたら明確にNoと言いますが)。彼の言説は嘘(こじつけ)が多く被害を受けた人も多くいることは推察できますが、がん以外の言説(ちょっとした高血圧や高コレステロールを薬で下げても意味がないなど)は真実を含むことも多く、要は「医療に縛られるな」というメッセージがはっきりしているからです。

私が時間がある時に高齢者の方の話を聞いたりすると時折聞くのが「生きていて楽しくない」というものです。もちろんこの方は若い人たちの税金や未来の子供達の借金を増やしながら医療を受けているのに何を甘えたことを言っているのだろうかという気持ちを持つ一方で、この方に必要なのは医療ではないんじゃないかなと思ったりします。私が一番衝撃的だったのは終末期の患者さんで食事もままならないのに薬は一生懸命飲んでいてそれを聞いてみた時に「薬は飲まなければいけないんでしょう?」と問い返された時です。私としては100回のまずい薬より、1回の美味しい食事の方が人生の終末期としては意味があると思うのですが、「飲まなくていいですよ」と言った瞬間にこの方の今までの努力と人生が無為になるのだろうなと思い答えを窮してしまったことがあります。

「私たちは必ず死ぬのだ」という意識が希薄だからこのようになってしまうという思いがあります。死ぬことを意識すると、あまり我慢しなくて良くなりますし、自分のために生きることも他人のために生きることもできるようになって限りある人生の充実度が増すと思っています。そのためにDNARをするようにしている部分が大きいです。

もう一つは医療業界は治療や検査をするほど儲かる仕組みになっていてそれが若い世代や未来の世代に負担をかけてしまう点です。「あれしましょう、これしましょう」という形です。医師としては善意でしている側面(あるいはしないと訴えられる)がありますし、一見すると患者さんに親切で所属している医療機関は潤うし、若手医師からすればやった分だけ医療技術が上がるのでwin-win-winには見えますが、今の保険医療制度だと9割は若い世代からの税金(+未来の世代への借金)なので若い人たちの人生を窮屈にしている側面があり医療している側からすると正直言えば心境は穏やかではない部分があります。

加えて、数少ない医療関連で社会的発信をしている医師兼社会学者的な人も提案を自身の関わっている組織の利益に繋がる形に恣意的に捻じ曲げている(医師を増やせやコンビニクリニックの推奨、高い薬を自分たちでも出せるようにしろなど)節がありありとしているのでげんなりします。(例えば簡易的な診断、問診や治療(例えばインフルエンザなら検査キット陽性で危険因子なければタミフル処方)などは自動診断やコメディカルへ権限を委譲してしまえば、必要な医師数も減らせるし、受診者の手間も減らせるし、コメディカルの給料は増えるけど医療費も減らせて若い人たちへの税金も減らせますね)よく政治家でもあると思いますが、このような方も若い頃は志があったのだろうにどうしてこのような人になったのだろうなと想像してしまいます。。ご自身が入院されるとDNARの話をされると思いますが「死に際」を考えた時にはおそらく今とは別のことをされるのではないかなと思います。どんな人であれ「死に際」でくらい金銭的欲求から解放されてまともなことをしたいというのが人としての性だろうと思うからです。その点でいえばまだ近藤誠氏の方が言っていることが清々しい印象を受けます(ただ何度も言いますがこの方は医学者としては最低です。宗教家として評価しています。)。

誤解して頂きたくないのですが、私は高齢者を尊敬しています。医療保険制度が壊れつつあるから高齢者は我慢して欲しいと言っている訳ではありません。高齢者が充実した顔ができる方が若い人たちが安心して生活できるとも思っています。私は今29歳ですがそれでも今までに何度も死にかけたことがあります。つい先日も運転中に道路が凍っていてブレーキが効かず危うく死にかけました。私はこのように日常的によく死にかけていますが、高齢者の方は戦争の時代や戦後の時代も生きてきたのだと思うと敬意の念を持たずにはいられません。だからこそ人生の仕上げとも呼べる時期に医療に縛られずに生きて欲しいという気持ちがあります。死ぬことを意識できれば生きることが充実するのではないかなという提案でした。もちろん若い世代であってもいつか死ぬのだと思うと、人生が豊かになると思います。死んじゃったら出来ないことは沢山ありますからね。若い人も老いた人も楽しく生きるヒントとなればなと思います。

10 thoughts on “「死に際」に思うこと”

  1. 自分が思っていることを全部書いていただけたと思っています。私は85歳、要介護4の妻と毎日を精一杯生きているところです。

    1. 実際にご高齢の方からこうしてご賛同して頂けるとこのような議論も浸透して行く時代になると思います。コメントして頂きありがとうございました。。

  2. こんにちは。初めまして。
    私の父は幾つもの持病を抱え入退院を繰り返しています(要介護3)その度に延命措置について尋ねられます。正直病院の逃げ口上の様に感じていましたがそうではないのですね。理由を付けて避けていましたが父とゆっくり話してみます。良いきっかけを頂きました。有り難うございます。

    1. 延命措置について尋ねるのは人によって考え方は様々ですが、患者さんやそのご家族には大事なことですので相手の意図に振り回されずに受け止めて頂ければと思います。コメントして頂きありがとうございました。

  3. 死(終末)を受け入れたほうが人は解放される、と考えるのはあなたが医者として幾つもの死を見てきて免疫があるからで、死を意識しないように日常を繰り返そうとするのは否応なしに最期の足音が聞こえてくる中死にたくないと考える当人にとっては当然の行為とも思えます。記事にも書いてありますが医学的なお話ではなく宗教的な意味合いが強いのかな、と感じました。

    「死ぬことを意識すると、あまり我慢しなくて良くなりますし、自分のために生きることも他人のために生きることもできるようになって限りある人生の充実度が増す」というのはどちらかというと逆で、自分のため、他人のために充分に生きてきた人ほど人生に納得し、最期を自然に受け入れることができますが、流されたり迷ったりする期間の多い人生を送ってきた人ほどいざその時が近いことを明示されると「時間が足りない」という後悔の念に駆られる人が多く感じます。そういう方々には普段通りの生活を最期まで送らせてあげた方が安らかに旅立てる、と経験上思います。

    1. コメントありがとうございます。
      まず「死を受け入れた方が充実した人生を送れる」と考えるようになったのは医師になる前からです。医師になってから「受け入れている人が少ない」事実に驚きました。また「死にたくないと考える当人にとって当然」となっていることは認めています。その上で「よく考えると不自然(副作用が出てまでも薬に頼らなければいけない体になっているのに死を想像できない)」であり「死を考えた方が良いんじゃないか」と提案しています。
      『「時間が足りない」となってしまう人には普段通りの生活を最後まで送らせてあげた方が安らかに旅立てる』と私も思うので答えに窮してしまったと書いています。その上で「時間が足りない」と思う人が少なくなるように早めの段階でDNARのお話をさせて頂いているいうことです。
      私とさらさんは実はほぼ同意見です。それでも意見が対立しているようになってしまうのは私の文章表現能力が低いかあるいはさらさんの文章読解能力が低いからです。人の諍いっておおよそそういうことに起因している気がします。ちなみに私はよく人とトラブルになってしまいますので私が悪い可能性が高いです。

  4. 今晩は。何度もすみません。私自身のことで考えると延命措置はノーです。例えば抗がん剤治療の副作用で体力と時間を奪われるならその間好きなことをしたい。これは決して治療を受けている人を否定している訳ではなく選択の自由と個人の意思の尊重の上です。
    全く関係ない質問をしますが…masakazuさんのお誕生日は6月18日ですか?だとしたら私と一緒です。気になったので聞いてしまいました。すみません。

    1. なるほど、その意思を明確にして信頼できる医師と相談しながら治療を選択していただければなと思います。部位によっては苦痛なくQOLを上げてくれる癌治療もありますので。
      誕生日は秘密です。

  5. masakazu様と同い年のものですが、私もほぼおなじことを考えていました。私自身は基礎生物学者ですが、研究を進めれば進めるほど、今の日本で人を救えるのは、科学ではなくて宗教なのではないか、と考えるようになっています。
    どういう生き方をしたいか、と同じくらいどういう死に方をしたいかは重要な問題だと思うのですが、現代は人と死が遠くにありすぎて(戦中、戦後を経験した世代にとっては死について考えることがタブー視されていたのも有るかも知れません)、死について考えることが禁忌になっていると感じることがよくあります。
    人々が当たり前のように、死を受け入れてより良い死を迎えることを望める世界になると良いな、と思います。

    最後にですが、masakazu様の意見には同意するものの、近藤先生に関する記述に関しては好意的に受け止められませんでした。近藤先生の文章は非常に巧みで、本を読んで「あ、抗がん剤治療なんてやめよう」と思ってしまう患者さんがたくさんいらっしゃいます。masakazuさんのように冷静に情報を分析できる方のみがこのブログを読むわけでは無く、実際には治療が必要な患者さんの目にこのブログが止まり、このブログがきっかけで興味を持ち、本を購入するに至り判断を誤ってしまう可能性もあります。
    masakazuさんの主張を伝えるだけなら、近藤先生の下りは無くても良いのでは…?というのが私の提案です。差し出がましく申し訳ありませんでした。

    1. コメントありがとうございます。
      Naoさんのおっしゃる通りだと思います。ただ私は人生で死生観を持つことは大事な一方で実生活では科学の方が人を幸せにしてくれると思っていますので、Naoさんには是非頑張って頂きたいところです。特に基礎系の研究者の方は私たち医療の礎を築いて頂いている部分もあり尊敬致しております。
      近藤先生のくだりもその通りで、私もまさか10万人ぐらいの人たちに読まれることを想定はしておりませんでした。このサイト自体が九大医学部の後輩たち向けに書いているもので、「上の先生が叩いているものは無条件で叩いて良い」のような安易な物の見方をするのではなくて、「自分で判断していくことの勇気」を持って欲しいなというくだらないお節介根性で書いたものでした。ただ、また普段通りのサイトに戻りつつあるのでこのままで行こうと思います。ご指摘ありがとうございました。

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